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2月

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節分

 節分はもともと立春、立夏、立秋、立冬の前日を指し、四季の変わり目を指していましたが、いつしか立春の前日だけを指すようになりました。節分の豆まきは、鎌倉時代の末期頃まで大晦日に行われていた追離(ついな)の鬼払い行事と、農村にもともとあった豆まきとが結びついたものです。  節分の翌日が立春、この日を年越しと考える風習があったことから八十八夜、二百十日、二百二十日などはこの日から起算します。
 

豆まき(福豆)

 節分の豆まきは鎌倉時代の末期ごろまで大晦日(おおみそか)に行われていた追儺(ついな...悪鬼を追い払う儀式)に起源があるようです。その鬼払い行事が農村にもともとあった豆まきと結び付いたようです。まめは魔滅(まめ)に通じていました。
 豆は大豆を使います。小さい豆なのにどうして大豆なのかは知りませんが"みそ"も"豆腐"も"納豆"も"きな粉"も酒のつまみの"枝豆"もというように日本人の食生活の大事な部分をみごとなまでに担っています。
 なかでも豆腐の歴史は古く2000年も前に中国でつくられ、奈良時代に日本に伝えられ、精進料理とともに料理法が発達したようです。煮るか、焼くか、干すかのそれまでの日本食の料理法としては極めて革新的であったようです。
 製法は難しくありません。2丁分の作り方を説明しましょう。
 まず乾燥大豆300gをよく洗って水につけておきます。(夏10時間、冬24時間)この大豆と同量の水を加えてミキサーで2分間ぐらい強にしてひきます。牛乳のようになりますがこれがヒキゴです。
 このヒキゴを深鍋に入れ1リットルの熱湯を入れてかき混ぜながら強火で煮立たせます。鍋底をこするようにかきまぜることと煮こぼれないようにするのがポイントです。泡が大量に出ます。この煮汁を暑いうちに布袋で絞ります。袋に残ったのがおから、汁が豆乳です。暑いので大変ですがとにかく堅く絞ることが大切です。豆乳を弱火にかけて、鍋底が焦げないようにかき混ぜながら75度Cの温度になったら火を止めてぬるま湯で溶かしたニガリ液を少しずつたらしてふたをして1〜2分待ちます。半分ずつ2度に分けるのがよく残り半分を同じようにたらしてフタをして10分位待ちます。10分後フタをあけると水と固まった豆乳に分離しています。牛乳色で分離していない場合は火にかけて温めると分離をします。
 流し箱の中に木綿布を十文字に敷き、その中にお玉を使って固まった豆乳をすくい入れ上方を布の端でおおい、押ぶたをして水を切って15分程度、あとは布に包んだまま流水にさらして15分でできあがり。買った方が安上がりなんて言わないで是非挑戦をしてみて下さい。味は格別です。
 
 

受験シーズン

 大豆をくだいて煮たてて豆乳を絞りだすのが豆腐作りの第一歩。残りかすがオカラです。残りかすなどというのはオカラに失礼、栄養価満点の健康食です。豆腐の歴史とともにあるのですからおよそ2000年、神代の昔からの食べ物です。
 「龍田あげ」が奈良の龍田川の紅葉からきた命名ですが、この龍田川とオカラを結ぶ落語を一つ。
 千早ぶる神代もきかず龍田川
   からくれないに水くくるとは
 龍田川の紅葉のみごとさを歌った百人一首にもある名歌ですが、こんな迷訳もあります。
 相撲取りの龍田川さんが遊女の千早にほれますがその千早にふられ、妹分の神代は話を聞いてもくれません。あきらめて龍田川は田舎に帰って豆腐屋を始めます。
 それから月日がたったある日、一人のみすぼらしい女が「オカラをくれないか」と立ち寄ります。
 よく見るとその女、かつての面影はありませんが遊女の千早ではありませんか。千早とわかっても、ふられた腹いせかオカラをあげません。こんなケチな男がもてるわけがありません。
 千早は龍田川が「オカラをくれない」と裏井戸に身を投げてしまいました。
 すごい迷訳です。以後その裏井戸に水はなくいつもカラカラで、つるべがいつも淋しくカラカラと音を立てるだけだったとか。オカラの恨みはおそろしい。2月受験シーズン、こんな解釈では合格できそうにありませんが、案外このように知恵のまわる人の方が社会では活躍をするのかも知れません。ちなみにオカラのオは接頭語ではありませんのでとってしまうとおかしくなります。奈良づけに「お」をつけると変になるのと同じです。漢字ではきれいに雪花菜と書きますが、読める人はいないでしょう。
 

初午(稲荷ずし)

 お稲荷さんの縁日は2月最初の午の日、稲荷の総本社の京都の伏見稲荷大社の祭神が稲荷山に降臨したのが和同4年の初午の日だったからだそうです。稲荷は、稲生で農業の神様です。稲荷神社に行けば、必ずキツネの置物があることから、稲荷さまはキツネではと思う人が多いのですがこれは俗信です。祭神は猿田彦命、大宮女命(オオミヤメノミコト)など。仏教と結び付いたとき茶書尼天(ダキニテン)が玄狐に乗る姿がありました。  そのことからキツネは神様のお使いだということになったようです。稲の神様であるお稲荷様も今では五穀豊穣ばかりでなく商売繁盛とか産業の神さまとしてあがめられています。この初午を基準にしたさまざまな俗信があるのも民衆に親しまれ続けているからでしょう。「初午が早くやって来る年は火事が多い」といわれ、2月5日以前に初午がくると伏せ馬といって豊作、2月6日以降ですとはね馬といって不作になるといわれています。
 
 

バレンタインデー(14日)

 ムチ打たれ、その激痛に気を失ったバレンティヌスに水がかけらけ、傷ついた身体にまたムチの雨が降りました。
 兵士たちの自由な結婚が禁止されたことにキリスト教司教として反対を唱えただけでした。しかし、ローマ皇帝は怒り狂いバレンティヌスを捕らえました。容赦のない拷問が続き動くことすらできなくなったバレンティヌスは光の入らない地下牢にボロ切れのように投げ込まれたのでした。その日からバレンティヌスを死の恐怖が襲い、神への不信が高まって行きました。そんなバレンティヌスを慰めたのは食事を運んでくる獄史の娘の笑顔でした。娘は盲目でしたが明るく、彼を慰め励まし、勇気づけました。
 それから数日、いつしか娘の優しさにバレンティヌスの心は揺れ動き、彼女の足音に胸をときめかせるようになりました。そのわずかな逢瀬がバレンティヌスに希望と勇気を与えました。彼女の優しさはバレンティヌスに芽生えはじめていた祈りへの不信感を拭い去りました。そして、再び天にぬかづいたとき、彼の祈りが通じました。
 娘の目が見えるようになったのです。2月14日、バレンティヌスの処刑が行われました。その前夜、彼は娘に別れの手紙を書きました。
 そこに書かれた「あなたのバレンティヌスより」のサインは以後深い愛情を示す言葉になりました。
 

チョコレートの由来

 チョコレートというと板チョコを思い浮かべます。しかし、もともとは飲み物でした。初めてチョコレートを作ったのは、メキシコのアズテック族でした。カカオの木の種、つまりカカオ豆を砕いて煮た汁を冷やし、香辛料を混ぜ、胡椒で味を付けて飲んでいたのです。
 メキシコの言葉で名前は「チョコラル」。意味は「苦い水」です。味は苦いのですが、飲むと身体に力がみなぎって、病気にもかからないと信じていました。今でこそ、ポリフェノールなどの効果が分かっていますが、昔の人は体験的に学んでいたのでしょう。
 このチョコラルをスペインの探検家たちが教わって、その疲労回復効果を認め、広まっていきました。その際に胡椒ではなく砂糖を入れました。「チョコラーテ」の誕生です。名前は英語圏に入ってチョコレートとなります。オランダのヴァン・ホーテンは、1828年にチョコレートを、水や牛乳に溶けやすくするために、脂肪分を取り除きました。そして生まれたのが粉末ココアです。板チョコの始まりはスイス。1876年のことでした。 日本には明治初期に入ってきましたが、広く親しまれたのは大正時代に入ってからでした。
 
 

ビスケットの日(28日)

 2月28日は「ビスケットの日」です。1980年に全国ビスケット協会が制定しました。由来は、1855年(安政2年)の2月28日、長崎に来ていた水戸藩の蘭医・柴田方庵がオランダ人から習った「ビスコイト」の製法を藩に書き送ったそうです。ビスケットの語源は「2度焼く」という意味があるそうで、そこから28日をビスケットの日に定めたそうです。ビスケットの中でも、特に脂肪が多く、まろやかな風味を持っていて、砕けやすいものアメリカではがクッキーと呼んでいます。  クッキーが作られたのはアメリカです。 クッキーはオランダ語の菓子を意味する「クック」から生まれました。アメリカに渡ったオランダ人が、自家製ビスケットを作ってクッキーと名付け、売ったのが始まりでした。そして瞬く間に普及したのです。
 日本には、ビスケットはヨーロッパから東回りで、クッキーはアメリカから西回りで伝わりました。
 

針供養(8日)(煮しめ)

 江戸時代からある行事、女性が1年の間に使って折れたり曲がったりした針を供養します。この日は針を持ってはいけない日で、女性の休日となりました。  供養は、折れたり、曲がったりした針をこんにゃくや豆腐に刺して神棚に上げ、大根、ニンジン、ごぼう、芋、豆腐などを一緒に煮たものをお供えして、拝みました。
 
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