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5月

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端午の節句(1)

 風の中、大空を泳ぐ鯉のぼりは、何ともさわやかに、なじみ深い5月の連休のころの風物詩になっています。
 もともと、この幟(のぼり)も吹流しも、戦国時代の末期、軍陣に立てられ、戦場に旗めいたものでした。
 これが男の子の健やかな成長を願う端午の節句に取り入れられ、武家屋敷の5月の空を泳ぐようになり、座敷には鎧(よろい)甲(かぶと)刀などが飾られました。
 こののどかな風習を町人が見習って、想像力たくましく、逆境にも負けることもなく勝ちあがる縁起のいい鯉を大空に泳がせました。
 幟(のぼり)の竿の先についた飾り物はいまでこそ金属製ですが、もともとは竹篭、これは依(よ)りしろといって、神さまが下りて来るときの目じるしであり、幟そのものが聖なる柱なのだそうです。
 吹流しも神主さんがお祓いに使うものの巨大な物と言われれば、なるほどそのように見えてきます。
 さて、こどもの日、端午の節句は、中国からの伝来です。昔、中国では1年を十二支で分け、正月を寅として5月は午の月でした。端は初めの意味、従って「端午」は5月の初めの意味で、5月5日を端午節としていました。この日は悪日で菖蒲酒を飲み、競渡という競争をしたり、薬草刈りを競ったりする風習がありました。
 すばらしい季節ですが中国では5月を悪月と呼んで縁起の悪い月とし、邪気を祓うさまざまな行事が行われてきました。それが我が国に伝えられました。忌月(いみづき)、五月忌(さつきいみ)、つつしみ月として婚姻などを忌みはばかりました。
 

端午の節句(2)

 5月5日は、五節句の一つで男の子の祭り、端午の節句です。これが中国から受け入れられた風習だとはいっても、あらかじめ日本にそれを受け入れる素地がなければ、容易に拡がり根付くものではありません。5月5日は、農耕民族である日本人にとっては、田植えがはじまる前の農作業の安全とその年の豊作を願う神聖な儀式の日でもありました。この日は、男は戸外に出て家を空け、女性たちだけが家にこもって心身を清めました。  田植えは、身を清めた早乙女の仕事とされており、男たちは太鼓を打ち鳴らし囃し立てて、ただ見守っているに過ぎませんでした。これは子を産み育てるのは女性だから田植えをして米を産み出す稲を育てるのにも、女性たちの力に頼るというのが農耕民族として当時の日本人の一般的な考えかたであったようです。そのために、女性たちがあらかじめ家に閉じこもって身を清める日、それが旧暦で5月5日でした。
 
 

八十八夜 田植え

 夏も近づく八十八夜、野にも山にも若葉が茂り
 あれに見えるは 茶摘みじゃないか
 あかねだすきにすげの笠
「八十八夜」の茶摘みは初夏を告げる風物詩です。いつもなら機械で新芽を摘む農家もこの日はカメラに応えて手摘みをします。
 天気予報が発達していなかった昔は農作業に八十八夜や二百十日といった立春から数えた日数を生活の知恵として一つの重要な目安にしておりました。それまで霜がしばしば降りていたのが、八十八夜ごろから天候も定まり心配がなくなることを長い年月をかけた経験則で知っていたからです。
 この日に種蒔きをして、夏用の衣類を出しました。現在では茶摘みの風物詩が八十八夜を伝える程度、科学的な天気予測が発達し生活の知恵に頼らなくなりました。
 このころから梅雨時にかけて各地で田植えが行われます。初夏の太陽がきらめく水の田に一本一本植え付けて行く見た目にのどかな田植えの風物詩も機械化で消えました。
 見た目にはのどかでも田植えは大変でした。腰は痛いし、水の中のこと、疲れたといって腰を下ろすわけにもいきません。慣れないとぬるぬるの泥にさした早苗がついたのかどうかが心配で......。早乙女唄を歌いながら作業をするなど信じられないことでした。
 今に残る田植唄、早乙女唄は作業唄でもあり田の神さまの加護を願う神への賛歌だったそうです。
 

お茶の話

 八十八夜が過ぎれば新茶の季節です。健康ブームで注目されているお茶ですが、お茶が日本に伝わったのは奈良時代のこと。遣唐僧が中国から持ってきたといわれていますが、当時のお茶は少し今とは様子が違い、乾燥させた茶の葉を臼でひいて練り固め、団子にしたものでした。「団茶」と呼ばれていて、中国では薬のような扱いをされていましたが、日本では清涼剤として修行僧が目覚ましに使っていたのが始まりのようです。平安朝の桓武天皇の時代には、茶園は典薬寮という薬品の役所が所管していました。
 抹茶が日本に入ってきたのは鎌倉時代です。中国は宋の時代で、禅の研究で中国に行っていた栄西上人(えいざいしょうにん)が伝えました。栄西上人が書いた「喫茶養生記」には、お茶には脚気、食欲不振、腎臓病、中風、便秘、眠気などに効きめがあると書かれていて、健康の効果は古くから認められておりました。
 さて、お茶といえば静岡。静岡がお茶の産地として発展を始めたのは、明治に入ってまもなくでした。明治4年、江戸時代から続いていた川越え制度が廃止されて大井川に渡し舟が登場し、失業した川越人足約800人がお茶の栽培に転業したのが始まりです。「越すに越されぬ大井川」の言葉は、徳川幕府が江戸防衛のため街道筋の大きな川に橋を架けなかったことから生まれました。川越人足の脇の下より水かさが高くなると「川止め」として、水位が下がるまで川岸の宿で待たなくてはならなかったのです。
 
 

母の日

 1908年、米国ウェブスター町に住むアンナ・シェーヴイスさんが母をしのんで自分の行く教会の信者にカーネーションを配りました。このことは人々の深い感動を呼びました。そしてこの日を母の愛に感謝する日として「国際母の日」とすることが提唱され、5月の第2日曜日になりました。  日本には大正の初めに伝わりました。その当時は普及しなかったようですが、戦後その習慣が広まりました。
 カーネーションの花言葉は「母の愛情」。別名オランダせきちく、ナデシコ科の多年草、最近ではバラやランにおされ気味で生産が少なくなっているようです。
 

アイスクリームの日

 5月9日は「アイスクリームの日」。明治2年(1869年)の5月9日に、日本で初めてアイスクリームが発売されました。初めてアイスクリームを製造販売したのは、横浜の町田房蔵さん。アメリカで酪農技術を学んで明治元年に帰国した出島松蔵に製法を学んで作りました。その9年前に、福沢諭吉はアメリカでアイスクリームを食べたそうで、日本人で初めてアイスクリームを食べた人といわれています。  アイスクリームの歴史は長く、紀元前後のローマの文書にアイスクリームのレシピが残っています。
 日本でのアイスクリームの基準は乳固形分15%以上・うち乳脂肪分8%以上のもの。乳固形分10%以上・うち乳脂肪分3%以上がアイスミルク、乳固形分3%以上がラクトアイス、それ以下は氷菓です。
 
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