全給協 全国給食事業協同組合連合会
HOME 全給協とは ネットワーク 事例紹介 問合せ 会員 一般

11月

11月 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
 
 

酉の市

 11月の酉の日に各地の大鳥神社の参道は、熊手やお多福面、入船などいろいろな縁起物や、黄金餅、おこしなどの土産品などを売る露店が軒を並べ、大変なにぎわいを見せます。いわゆる「おとりさま」、酉の市、熊手市です。
 初酉の日を一の酉といい、順次、・二の酉、三の酉と呼びます。特に東京・下谷の鷲(おおとり)神社の祭は有名です。
 もともとは、江戸のころ、大鳥神社の祭礼に近所の農家がニワトリを奉納したり、老鶏を境内に放ったりしたことから始まったようです。
 大鳥神社は、元は武運を守護する神様として武士の間で信頼を集めていました。
 

勤労感謝の日

 11月23日、勤労を尊び、生産を祝い、国民が感謝しあうという趣旨で定められたのが勤労感謝の日です。終戦直後の昭和23年の制定です。
 それまで11月23日に行われていた天皇の行事「新嘗祭」(にいなめさい)が廃止になって生まれかわった国民の祝日です。
 新嘗祭はその年にとれた新穀を天皇が神々にそなえ、神といっしょにその新穀を食べる感謝祭でした。その1月ほど前に、その年の初穂を太陽神、天照大神と稲の神、豊受大神(とようけのおおかみ)にそなえる収穫祭、「神嘗祭」(かんなめさい)が行われていました。
 いずれも「日本書紀」や「続日本紀」に書かれているはど古い伝統行事ですが本来は太陽が復活する冬至を目標にした行事だったと思われます。
 一陽来復を祈る冬至まつりと稲の豊かな実りを神の恵みとする感謝祭とを合わせ持った祭りだったはずです。旧暦では冬至月と言われるように冬至は必ず11月でした。
 明治政府は明治6年、旧来の天保暦(太陰太陽暦)を廃止してグレゴリ暦(太陽暦)を採用する改暦を行いました。
 この新暦によれば冬至はだいたい12月22日、かくして冬至祭と感謝祭が1カ月ずれてしまいました。
 ところで同じ時期、11月の第4木曜日はアメリカの感謝祭です。メイフラワー号に乗ってイギリスから新天地にやってきた人々が、苦境を乗り越え、最初の収穫を祝った日です。ふるさとに家族一同が集まってごちそうを食べるのがこの日の習わしです。
 
 

収穫祭

 11月23日は「勤労感謝の日」、古くは新嘗祭(にいなめさい)と呼ばれ皇室の行事でしたが一般の農民にとっても稲の収穫を神や先祖に感謝をする祭りでした。この祭りは「かかし上帆という地方があるように「年間の農耕スケジュールの締めくくりでした。終えると木枯らしの吹く冬がやってきます。
 ギリシャ神話の世界でははじめ冬がありませんでした。太陽は一年中輝いて花や果実がいっもこの地上をかざっていました。
 ペルセポネは大地から生まれ出るものの母デーメテールの娘です。ある日ペルセポネが草花を摘んでいると突然大地が割れて4頭の黒馬に馬車を引かせた冥府の王ハデスがあらわれ、ペルセポネを地の底につれ去りました。
 娘が帰らないのでデーメテールは狂ったように行方を探しました。そして小鳥から冥府の王ハデスが連れ去ったことを聞き出しました。最高神ゼウスにこのことを訴えますがゼウスは良縁ではないかと突っぱねます。
 怒ったデーメテールがオリンボスを去ると大地はかわき、木の葉が枯れ落ち、大地の実りがとまってしまい人々は食べるものを手にすることが出来ません。飢えに苦しむ人々を見て最高神ゼウスはしかたなくハデスにペルセポネを返すように説得しました。返したくないハデスは一計を案じペルセポネにザクロの実を食べさせてしまいました。黄泉(よみ)の国の食べ物を口にすると黄泉の国との縁が切れなくなるのです。ハデスからそのことを聞き困ったゼウスはペルセポネがザクロを四つ食べたので4カ月の間はハデスのもとにとどまり、後の8カ月は地上で暮らすことでデーメテールを説得しました。それ以来ペルセポネがハデスのもとで暮らす間、デーメトルは悲しみにくれ草木のめんどうをみることがなく地上は冬になります。娘がもどってくると再び春が釆て、夏が来て、秋がゆくようになりました。
 

七五三

 毎年11月15日前後になると晴れ着姿の子供の手を引いた親たちが神社に詣でる姿が目立ちます。これが七五三といわれる風習です。七、五、三とい数字は奇数を重んじる中国の思想の影響をうけたもので、一般的には男児は五歳(地域によっては三歳と五歳)、女児は三歳と七歳になると、それぞれの地域で氏神さまや比較的に格式の高い神社にわが子の成長に感謝し、今後の無事を祈願するために参詣するのです。
 日本人は、もともと農耕を中心にした村落共同体をつくって生活していましたから、自分たちの住む地域ごとに一族の祖であり農業生活の守護神である氏神を祭っていました。
 このような生活様式を背景にして、「七五三」の風習は村落に自然発生的に行われるようになりましたが、江戸時代に入り都市化が進んでくると商人や武士の社会でも行われるようになり、しだいに定着していったのです。
 この風習は他の国には見られない、日本独特のもので、いまやますます盛んになり、だんだん華美になっていく傾向があります。子供のためには金を惜しまない親心をくすぐるデパートや関係業界のコマーシャルベースをねらった宣伝力によるものでしょうか?
 
用語集
食の知恵袋
食の歳時記(行事食)
郷土料理
食のことわざ
給食あの頃この頃